ダウン症のことを、知的障害、社会の負担、見返りがない育児と言う観点から説明されたら、親御さんの将来予測はどれだけゆがめられるだろうか。
そういう間違った価値観のことを、偏見と差別を呼ぶ。ダウン症の子どもは、今や、知的障害のカテゴリーから除外されている(2022年の宮崎障害者大運動会の記事を参照)。健康と知育を良好に維持する環境に恵まれていると、ダウン症の子どもたちは、普通の子どもたちと違和感なく混じって生活している。中には、そういわれないとわからない程輝いているダウン症の子どもも居る。これがダウン症の子どもを長らく観察してきて到達した自然史の結論だ。
令和6年7月2日、インターネットサーフィンをしていて、とんでもない記事に出くわした。タイトルは「ネアンデルタール人が6歳のダウン症の子どもを育てていたことが判明」で、Science Advancesに掲載の記事を引用している。スペインの洞窟で、昔の人類の骨が見つかり、調査の結果、ネアンデルタール人の骨と分かった。その中にあった内耳の骨がダウン症の特徴を有していた。年齢は6歳以上。つまりダウン症がある子どもが仲間として生活していたと考えられた。そのことは、よろしいが、後につづく議論が破廉恥であった。ダウン症ならコミュニケーションができないはずで、障害がある子どもを育てることは、周りの人たちに『何らかの見返り』が得られないはずという大前提を広げ、それに反する今回の発見は、利他的行動の画期的な証拠だと主張した。いやしくも科学者ならば、他の可能性がある推論(仮説)も等しく取り上げて、議論すべきであった。彼らの議論に流れている障害児差別の価値観は、健全な社会にとって有害で毒性がある。
ダウン症療育の専門家として言わせてもらうと、もう一つの仮説も検討すべきである。ダウン症で生まれた赤ちゃんの過半数に重大な奇形等があり、そのためネアンデルタール人の時代には、短命であると考えるのは正しい。しかしそういう合併症がないダウン症児が居ないわけではない。幼い年齢のもろもろの感染症の襲撃を乗り越えれば、一般の子どもと大きな違いがない姿を見ることができる。そういうダウン症の子どもは、往古の時代に障害があると認識されただろうか。家族の一員として育てられたであろう。こういう多様な姿を見せるのがダウン症の特徴でもある。今回発見された内耳の骨をめぐる議論で、様々な可能性を等しく取り上げられて論じなればならないのに、誤った価値観だけを根底にした論文が世の中に出回るようでは、差別をなくしましょうとは、赤面せずには言えないだろう。(文責:飯沼院長)