ダウン症の意味とは(続編) 宮崎大会のインパクト

令和2年8月末に宮崎県で開催された障害者陸上競技大会で、競技者の区分として、第三の”ダウン症”が新設されたことは、すでに報じました。しかしほとんどの関係者において、それがどんな画期的な意味を持っているかを正しく認識している人が居ないので、再度より明瞭に簡潔にわかるように説明を加えます。

従来から、ダウン症の競技者は、知的障害者の分類わくで、参加申し込みをしていました。つまりダウン症の人は、知的障害者であるという認識分類されて、何の疑問も抱かれなかった習慣があったということです。ダウン症の子どもを見る目も、知的障害者に属することになる子供だという視点で見られます。現に、多くの地域の教育委員会は、小学校入学を望むダウン症児に対して、ほとんど自動的と言えるほど、一律、ダウン症児のために用意した学校、つまり支援学校があるという態度で親たちに接します。その話あいでも、教育委員会側から、実際の子どもの知能ふるまいを見せてくださいという提案は、ほとんどありません。つまり実地に子どもに接しなくても、知的障害児に決まっているという前提で、親の相談に付き合っているのがわかります。医者の間でも、おそらく大前提として、ダウン症児は知的障害者になる運命から逃れられないという思い込みが存在します。ましてや産科医の認識は、教育委員会並みです。生まれた子どもがダウン症ではないかと考えると、すぐさま小児医療専門機関に送り出して、親には、紋切口調のダウン症の未来像を小児科医から吹き込まれます。このすべてが、間違った前提、偏見と差別という前提から出発していることを意識している医者は、悲しいかな僅かな数しか居りません。ほとんど居ないと言ってもよいくらいです。正しい言い方はこうなります。こんにちわ親御さん。ダウン症児が生まれました。良い教育をすると高いレベルの知的能力を獲得しますよ。大部分のダウン症児がそれに相当します。昔からダウン症児は、知能発達が低いままに推移すると言われていましたが、そのような児は全体と比較すると10%前後という少数派なので、もはやダウン症児イコール知的障害児と呼ぶことは、現実を見ていない言い分となります。大多数の知的レベルが高くなるはずの子どもが、成人の年齢になった時、知的レベルが低かったら、どういう人たちがその結果を招く役割を果たしたと考えますか?それは、教育者であり、親であり、医者でもあります。罪の深さは計り知れません。

陸上大会で、知的障害者の部門から切り離されたという意味は、簡単です。ダウン症は知的障害者ではありません、というメッセージが公式にスポーツ世界に発信されました。あとは、偏見と差別にまみれた世間一般がどれだけ反省し、倫理的に正しい論理で、進むべき道を進めるかどうかが、問われています。

30年前から、新生児病棟で面接した親御さんには、同じ倫理で接してきましたが、此方の言葉を真剣に受け止める人はおりませんでした。それほど偏見と差別の洗脳力は強烈だと思い知ってきましたが、宮崎大会の新分類設置の話は、胸がすくような爽快なニュースでした。(文責:飯沼院長)